ACミドルレンジは2001年のチーム設立から毎週末安定的に活動を続け、設立23年目を迎えました。
クラブの歴史の中では、設立から現在に至るまでの間に数多の出来事があり、今日に至っています。
このページでは、クラブの成り立ちや転機となった出来事などを、当時の貴重な写真とともにご紹介いたします。
ACミドルレンジは2001年10月18日に産声を上げました。クラブ代表を務める藤田が発起人となりメンバーを集めてチームを設立。
藤田はサッカーの指導者になりたいという目標を持って 大阪体育大学に進学したものの、普通の公立高校のサッカー部出身で、大学サッカー部とのギャップに戸惑うことばかり。
しかし、意識・実力ともにハイレベルな大学サッカー部に刺激を受け、「もっと高校のときに頑張れば良かった」と後悔の念が込み上げてきました。当時の大学サッカー界は現在のIリーグなどもなく、150名余りの部員の中でトップチームは30名程度。それ以外の選手は日本サッカー協会に登録されることもなく、練習試合さえほとんどないのが当たり前でした。
少しずつ大学サッカーに慣れてきた秋頃、「試合がなければ自分で組めばええやん!」という実にパワープレーな発想でチームの立ち上げを決意。自身の中学校・高校の友人をベースに「もっぺん真剣にサッカーやってみようや!」と持ちかけ、18名のメンバーでACミドルレンジを設立しました。なお、チーム名は当時のメンバーに候補を募り、複数出た案の中から多数決で決めました。「ACミドルレンジ」の発案者は初期メンバーであり藤田と高校の同級生である谷本昌紀氏。名付け親となった谷本氏にその由来を聞いたところ、「何となく」という非常にアバウトな答えが返ってきました。
2001年の秋にチームを設立し、翌2002年には大阪府社会人サッカーリーグに加盟。5部リーグからのスタートでしたが、毎年優勝し1つずつカテゴリーを上げていきました。2003年には4部で優勝し3部へ、2004年は 3部で優勝を飾り2部へ昇格を決めました。トントン拍子にカテゴリーを上げていった中で、日々身を置く大学サッカー部とのギャップに苦しむことも少なくなく、真面目に必死にチームを強くしていきたかった中 コンセプトに合わず退団した選手も少なからず見受けられました。ちなみに最初のユニフォームはアンブロ社製の白。当時のイングランド代表モデルでした。理由は藤田がベッカムが大好きだったからです。この写真は4部で優勝したときの写真。会場は武田薬品工業さんの十三グランドです。現在は駐車場になっているようです。
少しずつカテゴリーを上げて2004部は3部リーグを戦うことになりました。この年は立ち上げの中心世代であった1982年生まれ組が大学4年生になり、学生最後の年に。リーグ戦では苦戦しつつも要所をきっちり締めて2部昇格を決めました。翌年からは社会人として働きながら2部リーグを戦うことになり、本当の意味での「社会人サッカー」のスタートを迎えることになります。
この頃のユニフォームはアディダス製の青。フランス代表モデルですが、東京のサッカー用品ショップ「B&D」さんの通信販売で格安購入。当時で1着1,980円+マーク代でした。しかし長袖しか在庫がなかったのと、長袖=カッコいいから暑くても我慢しよう、みたいな風潮があり真夏の酷暑期でも全員長袖でプレーするという今では考えられない暴挙でした。
代表・藤田を含む主力年代が社会人となった2005年から2008年までを第二期と定義しています。この頃は各々の生活環境が大幅に変わる中で、仕事・サッカー・その他のプライベートとそれぞれのバランスを見出すのに苦慮した時代であると認識しています。 大学生が同級生を集めて社会人サッカーリーグに参入するケースは今以上にたくさんありましたが、多くはこの時期を乗り越えられずに消滅していきました。チームとして今も存続できているのは、この時期をどうにか乗り切ったことが大きかったのではないかと思います。ちなみに藤田はサッカーの指導者を志して大学を選んだものの、4年間の大学生活で出した結論は「もうちょっと自分のチームでサッカーしたいから一般企業で働く。しかも大阪勤務のところ。」でした。縁あって学生時代からアルバイトをしていた会社の社員になりましたが、苛烈な営業マン人生がスタート。奇しくもこの会社員生活が後のチーム運営にも大いに反映されていくことになります。
'82年組が社会人になった2005年は大阪府社会人リーグ2部を戦う最初の年でもありました。この年の最初の公式戦は4月に行われた全国クラブチームサッカー選手権大阪府予選(現:大阪社会人カップ)。当時1部の吹田ジョカトーレ千里FCさんと対戦し、見事に先制ゴールを挙げ、さらにリードを広げる追加点を奪い2-0のリード。このまま初の金星をというタイミングで飛び出した代表・藤田の豪快な左足でのオウンゴール。これをきっかけに2-3の逆転で敗戦を喫してしまいました。後にも先にもこの試合以上に悔しいゲームはなかなかありませんでした。
現在もとてもお世話になっている関西国際大学さんとの初対戦は意外にもかなり古く、2006年まで遡ります。当時とは関西国際大学さんの運営体制も全く違うのですが、この試合のマッチメイクのきっかけは、代表・藤田が職場の上司に連れていってもらった豊中の寿司屋さんで関西国際大学さんの当時の監督さんと隣の席になったことでした。
意気込んで試合に臨んだものの、全く歯が立たず0-8の大敗。中には徹夜で飲酒してから試合に臨む選手もいたりと頭の痛いゲームになりました。 せっかく得たPKのチャンスもフルスイングした結果、見事にGK正面で止められてしまいました。当時の2NDユニフォームはアディダス社製のグレー。胸に筆記体で「ACMR」と入るノスタルジックなものでした。
より真剣に、真摯にサッカーに取り組もうと意識改革がはじまったタイミングがこの2008年でした。チームカラーも青から赤に変わり、ユニフォームも一新。その取り組みの一貫として泊まりがけでの紅白戦を実施しました。会場は兵庫県のアスコザパーク丹波さん。前泊にはじまり翌日の紅白戦まで非常にテンションの高い活動になったことを今でも記憶しています。このあたりからチームの意識が大きく変わり、後のチームの礎となっていきます。
'82年組が仕事に慣れ、より真剣に真摯にサッカーに取り組もうと一念発起し体制を再構築しはじめたのがこのタイミングでした。 特にピッチ外での振る舞いや規律の徹底に腐心したのがこの頃の特徴で、代表・藤田が職場で叩き込まれた体育会系な考え方を社会人サッカーチームの運営にフュージョンさせて植えつけていきました。 チームの内部構造としては2013年からセカンドチームとなる「クラシック」を設立。 単体の「チーム」ではなく、複数チームを保有する「クラブ」へと変貌を遂げていきます。
設立・加盟から毎年カテゴリーを上げてきたものの、2部リーグではしばらくの足止めを食らうことになりました。 5シーズン目となった2009年、ようやく2部リーグを初制覇。この年のリーグ戦では序盤に勝ち点を落とす試合が頻発したものの、他チームの勝敗が望んだ通りに進み、かなり可能性の低いところからではあったものの奇跡的に優勝することができました。しかし、当時は1部へ昇格するためには2部で優勝した4ブロックの代表チームによる順位決定戦が行われており、この決定戦で4チーム中2位に入らなければなりませんでした。結果は惜しくも3位で、入れ替え戦に回ることになりましたが、この入替戦でもエルマーノ大阪さんに敗戦。翌年以降も2部を舞台に戦うことになりました。ちなみに順位決定戦の初戦でGKが退場するというアクシデントに見舞われました。この試合では控えGK不在のため、代表・藤田がGKを務めました。
入れ替え戦では残念ながら敗戦となったものの、直後の社会人選手権では2部所属チームとしては異例の快進撃を見せ準優勝を勝ち取りました。決勝での対戦チームは当時まだ大阪府1部に在籍されていたFC大阪さん。 圧倒的に押し込まれながらも要所でカウンターでチャンスを作る接戦を演じましたが、お互いに決め手を欠きスコアレスのまま後半ロスタイムへ。最後のワンプレー、FKからヘディングシュートを叩き込まれ準優勝となりました。ちなみに準優勝チームにも全国社会人選手権関西予選の出場権が与えられ、7月に初出場を果たしましたが、対戦チームは当時全盛期を迎えていた三洋電機洲本さん。初の府外チームとの公式戦は2-8での敗戦となりました。
地域リーグ界隈ではとても有名な岩手レボリューション(IRV)さんが来阪されました。応援されている盛岡ゼブラに所属していた選手が転勤で弊クラブに移籍してきたことがきっかけで大阪まで応援に来ていただきました。その世界では知る人ぞ知る「向かい風チャント」をミドルレンジ版に差し替えて熱唱、J-GREEN堺に美声がこだましました。この試合での対戦チームは吹田ジョカトーレ千里FCさん。
「吹田には負けれない〜闘志込めて戦え〜向かい風に立ち向かえ〜ミドルレンジ〜♪」試合は惜しくも0-1の敗戦となりましたが、ご声援ありがとうございました。
長らく競技としてサッカーに取り組んできた弊チーム、多くの選手が30代に差し掛かりつつある中で、競技としてプレーすることが難しくなってきた選手の受け皿として、生涯スポーツとしてサッカーに取り組む新カテゴリー「クラシック」を設立。 トップチームと2チーム体制となり、「チーム」から「クラブ」へと発展していくことになります。クラシックは運営者不在となる時期があり、2015年の活動停止期間を経て現在はサードチームとして活動しましたが、メンバー数の減少や出席率の問題があり2023年度で解散となりました。
2部リーグで戦いはじめて実に10年目、悲願の1部昇格を決めることができました。2009年当時のような順位決定戦はこの当時には撤廃されており、2部で優勝したチームは無条件で1部昇格というレギュレーションが設定されていました。勝ったチームが優勝という枚方FCユナイテッドさんとの最終戦は白熱した好ゲームになりましたが、見事に2ゴールを挙げて2-0の勝利を飾り、設立からの目標であった1部リーグへの参戦を決めることができました。
2016年からは設立当時からの目標であった大阪府社会人サッカーリーグ1部に参戦。より強力な対戦チームと鎬を削る日々がスタートしました。社会人リーグの競技力は毎年高まっており、取り組みの甘いチームや世代交代に失敗したチームは簡単に降格の憂き目に逢う厳しい環境でした。また、この年から競技性を求めた新チーム「セカンド」を設立。3チームを擁するクラブに進化していきます。2017年からは長年ユニフォームを使用していたアディダスからニューバランスにサプライヤーを変更しています。
序盤は予想以上に勝ち点を稼ぐことができ上位進出も夢ではないポジションにいた1部リーグでしたが、夏場の酷暑や相手に対策を講じられたりと徐々に失速。残り3試合で降格圏に位置することになりました。しかし途中から加入した新戦力の活躍もあり、最後の2試合は執念で連勝して12位フィニッシュ。本来は残留圏の順位ではあったのですが、関西リーグからの降格チームがあった影響で12位チームも2部降格対象に。残留するためには大阪府1位・2位チームのいずれかが関西リーグに昇格することが必要でしたが、関大クラブ2010さんが関西府県サッカーリーグを勝ち抜き関西リーグに昇格、苦労しましたが大阪府1部に残留することができました。関大クラブさんの応援のために毎週カツ丼食べて「カツで勝つ!」と呪文のように唱えながら応援に行ったことをよく覚えています。
多くの新戦力を迎えて臨んだ2017シーズンは開幕から勝ち星を重ね続け、12勝2分1敗で1部リーグ初優勝を飾ることができました。リーグ最少失点で安定した戦いができたことが最大の要因でした。しかしながら関西リーグ昇格を目指して臨んだ関西府県サッカーリーグ決勝大会では経験不足を露呈してしまいグループリーグ敗退。次なる目標である関西リーグへの参入は翌年以降のチャレンジに持ち越すこととなりました。この年からパートナーとなる企業・店舗様を募りプラクティスシャツを制作することをスタート。同様の取り組みでパートナーを募るチームも見受けられるようになりました。
純然たる趣味のクラブチームであった組織を、より安定した運営基盤を構築し、社会人サッカーのステータスを向上させるためクラブを一般社団法人化。 社会人チームの一般的なネガティブイメージとして「プレーが荒い」「取り組みがいい加減」「ハーフタイムにタバコ吸ってる」などが挙げられますが、高校生・大学生との交流試合を通じて社会人サッカー界の裾野を広げる意味でもこうったものを払拭していく必要があると考えています。今後の社会人サッカー界の発展のために重要な役割を担っていくという自負とともにより運営基盤を強化し毎週の活動に取り組んでいくことになります。
前年度最後の大会に優勝したことでクラブ初となる天皇杯予選に出場。関西大学には大敗したものの、続く社会人選手権でも大阪府代表の座を勝ち取り10年ぶりとなる全社関西予選に出場。また全国クラブチーム選手権でも本大会に進出し、北海道帯広市で行われた本大会に参戦しました。
大阪府1部リーグでは2位となり、6年ぶりに関西府県サッカーリーグ決勝大会に出場。強敵との激戦が続きましたが同じ大阪府代表のOKFCさんとの死闘を制して優勝を飾り、翌年度からの関西サッカーリーグ昇格を決めました。
なお、残念ながら2013年に発足したエンジョイカテゴリー「クラシック」はこの年で歴史に幕を下ろすことになりました。
クラブとして初めてトップチームが関西サッカーリーグに参戦。より競技力の高いカテゴリーに身を置き、心身ともに研鑽する日々がスタートします。資金面、運営面、競技面とあらゆる面で関西仕様のクラブ運営が求められるようになり、生き残りをかけてより念入りな準備や高い視座での舵取りを模索していきます。また、クラブ発足時のメンバーがシニア年代に差し掛かり、クラブとしてより存在意義が問われるようになってきます。
年度 | クラブ全体 | トップ | セカンド |
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2023 | クラシックが解散 | 大阪社会人リーグ1部 / 2位 大阪社会人選手権 / 代表権獲得(2チーム) 天皇杯予選大阪予選 / 1回戦敗退 全国社会人選手権関西予選 / 2回戦敗退 全国クラブチーム選手権関西予選 / 代表権獲得(2チーム) 全国クラブチーム選手権 / 2回戦敗退 関西府県サッカーリーグ / 優勝(関西2部昇格) |
大阪社会人リーグ2部 / 2位 |
2022 | サプライヤーをボネーラに変更 エンブレムを変更 |
大阪社会人リーグ1部 / 5位(1部残留) 大阪社会人選手権 / ベスト4 大阪社会人カップ / 優勝 |
大阪社会人リーグ2部 / 8位(2部残留) 大阪社会人選手権 / 1回戦敗退 大阪社会人カップ / ベスト8 |
2021 | 大阪社会人リーグ1部 / 3位(1部残留) 大阪社会人選手権 / ベスト8(途中打ち切り) |
大阪社会人リーグ2部 / 5位(2部残留) 大阪社会人選手権 / ベスト16(途中打ち切り) |
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2020 | 大阪社会人リーグ1部 / 4位(1部残留) | 大阪社会人リーグ2部 / 3位(2部残留) 大阪社会人カップ / 2回戦敗退 |
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2019 | 一般社団法人化 | 大阪社会人リーグ1部 / 6位(1部残留) 大阪社会人カップ / 2回戦敗退 大阪社会人選手権 / ベスト8(途中打ち切り) |
大阪社会人リーグ3部 / 優勝(2部昇格) 大阪社会人カップ / 1回戦敗退 大阪社会人選手権 / 決勝トーナメント1回戦敗退 |
2018 | 大阪社会人リーグ1部 / 4位(1部残留) 大阪社会人カップ / 1回戦敗退 大阪社会人選手権 / ベスト8 |
大阪社会人カップ / 1回戦敗退 大阪府社会人リーグ2部 / 10位 (3部降格) 大阪社会人選手権 / グループリーグ敗退 |
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2017 | サプライヤーをニューバランスに変更 | 大阪社会人リーグ1部 / 優勝 関西府県サッカーリーグ / グループリーグ敗退 (1部残留) 大阪社会人カップ / 3回戦敗退 大阪社会人選手権 / ベスト8 |
大阪社会人リーグ2部 / 7位 (2部残留) 大阪社会人カップ / 2回戦敗退 大阪社会人選手権 / グループリーグ敗退 |
2016 | セカンドチーム設立 | 大阪社会人リーグ1部 / 12位 (1部残留) 大阪社会人選手権 / 決勝トーナメント1回戦敗退 大阪社会人カップ / 2回戦敗退 |
大阪府サッカー協会に新規加盟 大阪社会人リーグ3部 / 優勝 (2部昇格) 大阪社会人選手権 / グループリーグ敗退 大阪社会人カップ / 1回戦敗退 |
2015 | 大阪社会人リーグ2部 / 優勝 (1部昇格) 大阪社会人選手権 / グループリーグ敗退 大阪社会人カップ / 1回戦敗退 |
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2014 | 大阪社会人リーグ2部 / 4位 (2部残留) 大阪社会人選手権 / 決勝トーナメント1回戦敗退 大阪社会人カップ / 3回戦敗退 |
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2013 | クラシック設立 | 大阪社会人リーグ2部 / 2位 (2部残留) 大阪社会人選手権 / グループリーグ敗退 大阪社会人カップ / 1回戦敗退 |
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2012 | 大阪社会人リーグ2部 / 3位 (2部残留) 大阪社会人選手権 / グループリーグ敗退 大阪社会人カップ 2回戦敗退 |
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2011 | 大阪社会人リーグ2部 / 2位 (2部残留) 大阪社会人選手権 / グループリーグ敗退 大阪社会人カップ / 3回戦敗退 |
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2010 | 大阪社会人リーグ2部 / 2位 (2部残留) 大阪社会人選手権 / 決勝トーナメント1回戦敗退 クラブチーム選手権 / 3回戦敗退 全国社会人サッカー選手権関西予選に大阪府代表として初出場 / 1回戦敗退 |
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2009 | 大阪社会人リーグ2部 / 優勝 大阪社会人リーグ2部順位決定戦 / 3位 大阪社会人リーグ1部・2部入替戦 / 0-3で敗戦 (2部残留) 大阪社会人選手権 / 準優勝 大阪・岡山対抗戦に大阪府代表として初出場 クラブチーム選手権 / 1回戦敗退 |
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2008 | チームカラーを赤に変更 | 大阪社会人リーグ2部 / 6位 (2部残留) 大阪社会人選手権 / グループリーグ敗退 クラブチーム選手権 / ベスト8 |
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2007 | 大阪社会人リーグ2部 / 4位 (2部残留) 大阪社会人選手権 / 決勝トーナメント1回戦敗退 |
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2006 | 大阪社会人リーグ2部 / 4位 (2部残留) 大阪社会人選手権 / 1回戦敗退 クラブチーム選手権 / 3回戦敗退 |
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2005 | 大阪社会人リーグ2部 / 4位 (2部残留) 大阪社会人選手権 / ベスト8 クラブチーム選手権 / 1回戦敗退 |
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2004 | 大阪社会人リーグ3部 / 優勝 (2部昇格) Aクラストーナメント / 2回戦敗退 |
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2003 | 大阪社会人リーグ4部 / 優勝 (3部昇格) 大阪社会人選手権 / 2回戦敗退 Bクラストーナメント / 準優勝 |
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2002 | 大阪社会人リーグ5部 / 優勝 (4部昇格) 大阪府サッカー協会に新規加盟 |
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2001 | チーム発足 | 初の対外試合を実施 |